葛藤
友人無し、恋人無し。
猛烈に寂しいです。
人生のほとんどぼっちなんです。
何年も何年も。
どこに行くにも何をするにも1人ばっかり。
普段は
「別に寂しくなんかないし!
ぼっちのが楽で楽しいし!(☝ ՞ਊ ՞)☝ウェーイ」
とか思うようにしてるけど、人がわちゃわちゃ楽しそうにしてるのを見ると虫酸が走ったり、西野カナやbacknumberの歌詞が受け付けなかったり、めざましファミリーみたいな○○ファミリーノリが大嫌いだったり、最近だと令和婚のニュースにイライラしてテレビに向かってリモコン投げたくなるのは、やっぱり自分が友人や恋人が居ないことで寂しいと感じているのに、人と関わることができないことが辛いからだ。
私が得ていないものを得て幸せそうにしてる人達に嫉妬しているのだ。
それに、奴らは私達ぼっちを見下したり馬鹿にしたりすることもあるじゃないか。
まじ許すまじ。
敵だ、敵。
そんなに思うなら、人と仲良くなって、自分も友達なり恋人なり作れば良いじゃないかと言われるかもしれない。
私がそもそも人と関われないのは、場面緘黙症のために話すことが出来なかったことが根本の理由だ。
私の場面緘黙症は、他人と話すことへの恐怖、話しているところを他人に見られることへの恐怖から来ていたが、話せない症状を咎められたり、馬鹿にされたり、陰口を言われたり、いじめられたりしたことでより恐怖が深刻化した。
そこで考えてほしいのが、
「恐怖の対象と仲良くなれますか?」
ということだ。
私はよく、友達ができないことで母親と言い合いになったことがある。そのときに、ねずみがトラウマ級に嫌いな母には
「お母さんは、ねずみと仲良くなんかなれないでしょ?それと同じで私は人間と仲良くなれないの!」
と言っていた。
酷い例えかもしれないが、恐怖の対象と仲良くなることはすごく難しいことなのである。
つまり、寂しくて寂しくて仕方なくても、寂しさを解消するには恐怖の対象である人間と仲良くなり、友達や恋人といった関係を作らねばならないということだ。
こう考えると、対人恐怖を抱えた人間の人生が結構ハードだと感じられると思う。
寂しいとかを抜いても、仕事をして生活していくことも人との関わりが必要だ。
その状況を避けさえすればいい他の恐怖症と違い、対人恐怖症は恐怖を避けて生きていくことは不可能に近いのである。
人との関わりを避けても辛い、人と関わっても辛い。
これが対人恐怖症である私がまだまだ逃れられない葛藤である。