とある緘黙女のこの10年②
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
前回
の続きになります。
うつ発症
自分が場面緘黙症だったことが発覚してからもしばらくは相変わらずな日々を過ごしていましたが、他人とは一応話せるようになって、話せないことで陰口を言われたり変人扱いされたりすることもなくなっていました。
でも、表面上は話せるようになってもまだまだ小中高の様々なトラウマやもともとの緘黙の症状により、他人への恐怖や不安は残ったままでした。
そんな状況でとにかく前みたいに話せなかったことで気持ち悪がられたくない、普通の人に見られたい。社会に出て通用する人間になるにはもっと話せるようにならなきゃいけない。そんな気持ちでずっと大学もバイトも頑張っていました。
そんな中、あることが引き金となってうつ病を発症してしまいます。
それは、バイトの接客中に
「このサイボーグ女!」
と罵られたことでした。
サイボーグと行ってきた客は注文で並んでいるときからいらだった様子で、どうやら車の中に子供を待たせていたらしく、早く注文することができなくて焦りやいら立ちがあったようでした。
なかなか自分の番が来なくて私が対応するのが遅くなってしまったことに腹を立てており、注文からものすごい剣幕でした。
私がそれに恐怖を感じておそらく緘黙の症状が少し出てしまったのでしょう。
笑顔が消えて無表情で応対してしまったためにサイボーグと吐き捨てられました。
私はこの時、サイボーグと言われたことに傷ついたのはもちろんですが、小中高とずっと人形のような振る舞いしかできなかった時代と比べて何も成長できていないのだと思い知らされて愕然としてしまいました。
高校までと比べて人と関わり、話そうと必死に努力したつもりでいたけれど、こんなに頑張っているつもりなのに私はまだサイボーグなのかと思ってしまったのです。
そこからだんだん無気力になっていき、大学に入ってから話そうと必死だったことがばからしく感じられ、また、いくら何を考えているか分からないと気味悪がられながらも不登校になることなく学校に通っていた小学校から高校までの10年以上の期間すら無駄な時間だったと思うようになり、これまでの頑張りすべてが馬鹿らしくなったと同時に、我慢の糸がぷっつりと切れてしまいました。
きっかけは客のサイボーグ発言ではあったけど、直接的なうつの原因はそれまでの我慢のストレスが一気に心身に来てしまったことでした。
大学もだんだんと行かなくなり、最初は先生にメールで休む連絡を入れることはしていたけどそれもせず無断で休むようになりました。
高校までは「話せなくても、変人扱いされても学校に頑張って行っている私」が自分の大きな取り柄だと思っており、学校に行くモチベーションを保つうえで重要な事だったけど、大学に行かなくなってずっと積み上げてきたその取り柄すらも崩壊していき、自分の心は当時はボロボロでした。
荒れた生活
学校にも行かず、家でお酒を飲むというめちゃくちゃな生活をするようになっていましたが、無断で休むようになったゼミの先生が見かねて親に私が学校に行っていないことを話してしまい、とうとう親にもばれてしまいました。
親はやはりひどくショックを受けていました。
それでも、私が何を思ってこんな行動に出ているのか理解しようと話し合いの場を何回か設けてくれましたが、当時まともな精神状態ではなかった私は母に対し、
「お母さんが私に緘黙のことを隠していたからこんなことになったんだ」
「今まで喋りなさい、喋りなさいって言っときながら今更理解したいとか意味が分からない」
「私がこうなったのは全部お母さんのせいだ」
などと暴言を吐いてしまいました。
ある時は居酒屋でお酒を飲んで腹を割って話そうという機会もあったのですが、自分をコントロールできず、当時は母に対する不信感も強かったので話の途中で深夜の居酒屋を飛び出して母を置いて帰ってしまったこともありました。
そんな感じで泣きわめき散らしながらも母と話をした結果、私が子供の頃は場面緘黙症なんて言葉の知名度はほとんどなくて、場面緘黙症と診断されたからと言って学校の先生は「お母さんの気にしすぎですよ」と言って特に支援はしてもらえなかったことを聞きました。
また、今でこそ発達障害や精神障害など見た目では分かりにくい障害の認知や理解が進んでいますが、私が小中高の頃はほとんど理解もなくて、私の学校の特別支援学級も子たちも身体的障害か知的障害の子たちしか行っていなかったこともあったので、私のような精神障害は放置されてしまうという状況でした。
その為母もどうすることもできずに私に何とか自力で話せるようになってほしいと思って私に話せるようになりなさいと言い続けてしまったとのことでした。
何の支援もしてもらえない状況で私が自分の病気を知ったところで、ショックを受けて学校に行かなくなるなどデメリットが大きかった可能性もあり、なかなか私が緘黙であることを母は私に言えなかったようでした。
その話し合いがあってもしばらくはもやもやしていましたが、日がたつにつれて母の気持ちも少しずつ理解できるようになっていきました。
そんな感じで母とのわだかまりも解けつつある頃、私のゼミの先生から大学の保健管理センターで臨床心理士の先生と話をしてみたらどうかという勧めがあり、保健管理センターに通うようにもなりました。
その頃ははじめましての人と話すのがやっぱり難しい時期だったのと、まだ情緒が安定していなかった時期だったので、自分の話を心理士さんに話すときに大泣きしてしまい、何を話したか全く覚えていないです。
でも、その心理士さんはその後大学に復帰するときに本当に大きな力になってくださったので、その話もまたブログに書こうと思います。
それでも私のうつ病と緘黙の後遺症である社会不安障害の症状はよくなっていなかったので、母が心療内科を調べてくれ、心療内科にも通うことになりました。
続く
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