大丈夫じゃない
私が精神疾患であることを知っている人と会って話をすると、
「元気そうだね!」
とか、
「普通に話せてるよ!」
とか、
「全然緘黙に見えない!」
と言われることがよくある。
それは、「なおが思っているよりもなおは会話ができているから自信を持っていいんだよ」という優しい気持ちや、「なおの元気な顔が見れて嬉しい」もしくは「安心した」っていう意味で言ってくれていることがほとんどで、その優しい気持ちにいつも心から感謝している。
私は今は場面緘黙症には見えない程度には話せるようになっているってことだから、
「私は自分が思っているよりも会話ができるようになってきているんだな」
と自信になっている。
でも、これが少ししんどく感じてしまうときもある。
どういうことかというと、病気に見えないということは、私は本当は病気ではなく、本当はやろうと思えばできるのに、やろうとしていないだけなんじゃないか、また、周りにそう思われているんじゃないか、とぐるぐる考えてしまうことがあるということだ。
場面緘黙症の症状が強く、全く話せなかった頃は、自分としては
「何故かわからないけど学校に行くと話すことができなくなる」
という感覚はあったし、話せないことを咎められたり、悪口を言われたりしたときも、
「好きで黙ってるわけじゃないんだけどな」
と思っていた。
でも、今、自分なりの血のにじむような努力や、病院での治療を経て、とりあえず変に見られない程度に話せるようになってからは、緘黙を打ち明けても
「全然見えない!」
と言ってもらえることが増えた。
これは、間違いなく緘黙の症状が改善されていることを意味しているから、喜ばしいことではあるが、話せているだけに、今度は私の感じている対人不安や、つらい気持ちが表面に出なくなっていて、病院やカウンセリングに行く際にもあまりしっかり伝わっていないんじゃないか?と思うこともあるのだ。
私は緘黙の症状が強かった時期に、
「返事をしなくてとても失礼な人間だ」
と、周りに不快な気持ちをさせてしまうことが多かった。
実際に、
「黙っていることで、自分がどれだけ失礼なことをしているかわかっているのか」
と怒られてしまったことも沢山あった。
実際に、挨拶をしてもらっても声が出せなくて挨拶を返せなかったし、何かしてもらっても「ありがとう」も言えなかったし、話しかけられても答えられなくて、私自身は無視する気持ちは無くても結果的に無視する形になってしまったりして、相手を不快な気持ちにさせたり、傷つけてしまったりしてしまっていた。
病気のためとはいっても、自分が失礼なことをしている自覚はあったし、しかもしたくてしているわけではなかったから、身を裂かれるようにつらかった。
だから、話せるようになった今は、
「相手に失礼な態度をとってはいけないんだ」
という意識はすごく強くある。
だから、対人不安が強くて話すことが大変な日でも、笑顔で話すようになった。
それは主治医の先生やカウンセラーの先生にも同じで、調子が悪いときでも明るいテンションで話をしてしまう。
だから、「笑顔で話せているから大丈夫だろう」と思われてしまって、場面緘黙症もうつ病も私の訴える症状よりも軽く伝わってしまっているような気がすることが多い。
よく、場面緘黙症の経験がある人で、
「中途半端に話せるようになってからの方がつらい」
と訴えてる人を見かけるが、話せるようになると、周りからは病気に見えなくて、でも、感じている不安や恐怖は全く話せなかった頃と変わっていない、というパターンが多いのではないかと思っている。
私も、話せない状況に危機感をすごく感じて無理矢理話すようにしたけど、表面的には話せても話すことへの恐怖はずっと残ったままだったから、人との関係もうまく築くことができない。
大丈夫だよ!と言われると、
「本当はそんなに大丈夫でもないんだけどな( ´・ω・`)」
と思ってしまうのである。