緘黙時代を耐えられた理由
私は、幼稚園生の頃から高校を卒業するまで、場面緘黙症で先生や同級生とほぼ話せなかった。
話せないということは、誰かに伝えたいことや言いたいことがあってもずっと飲み込まないと行けないということ。
誰かに話しかけられても返事が出来なくて、無視したくなんかないのに無視することになってしまうということ。
そして、自分以外の人達が普通にやっている「話すこと」や「笑うこと」ができなくて、奇異の目で見られてしまうということ。
だから、私は幼い頃からずっと「話さなくて変な子」「失礼な奴」「気持ち悪い」「うざい」などなど他人から思われてきた。
これは被害妄想ではなく、周りの態度が私に対して明らかにおかしかったからよくわかるのだ。
実際にこれらのことは面と向かって言われたことあるし。
今はパッと見は緘黙症だとわからない程度には話せるようになったから、周りから変な人だと思われることも大幅に減った。
だけど、小さい頃からずっと他人から変人扱いされ続けてきたのはすごくつらいことで、私のトラウマにもなっている。
だからこそ、変人扱いされずに普通に接してもらえることがいかに幸せかを感じる事が出来ているともいえるんだけど。
変人扱いされ続けることの何がつらいって、やっぱり自己肯定感がどんどんなくなっていくことだ。
変な人とか気持ち悪いとか言われると傷つくのが普通だし、それが何年も続くと、
「そんな自分が果たして存在していていいのだろうか」
という気持ちになってくる。
私もそんな気持ちに苛まれていた。
でも、私はそんな気持ちでいながらも小学校から高校の間はずっと不登校になることもなく、学校に行き続けていた。
それは、そのときは自分が場面緘黙症という病気によって話せないのだということは知らなかったけど、自分の中に
「私だって好きでこうなってるんじゃないんだ」
という気持ちが強くあったからだと私は思っている。
私は「話さなくて変な人」とか、「気持ち悪い」「うざい」と言われ続けていて、それを結構真に受けていた。
だから、ある程度話せるようになった今でも基本的に他人は怖い。
だけど、真に受け、傷ついているだけではきっと、
「そんな自分はこの社会に生きている価値はない」
との思いに支配され、外に出ることが出来なくなったり、今まで生きてすらいなかったかもしれない。
私がずっと持っていた
「私はなりたくてこうなっているんじゃないんだ」
という気持ちが私が学校に行き続ける非常に大きな支えになっていた。
いくら周りに気味悪がられても
「なりたくてなってるわけじゃない中、私は非常によく頑張ることのできる強い人間なんだ。一方的にけなしてくる人達なんかよりもずっと強い人間なんだ」
と思い続けていた。
この気持ちが無ければ、もっと早い段階で心が折れてしまっていただろう。
うつ病になってからも、この
「なりたくてなってるんじゃない精神」はやはり私の大きな支えになっていて、例え何も出来なくてつらくなる日があっても、
「でも、私が望んでできなくなってるわけじゃないし」
とある程度は病気のせいにして、全部自分が悪いなどと思わずに居られるのだ。
できないことの全てを自分のせいにしてしまうと、もうなんか消えてしまいたくなる。
「なりたくてなってるわけじゃないし」
と考えることは、私には割と生き続けるのに役に立っている。