A型事業所の利用の流れ①
こんにちは。
以前のブログで放課後等デイサービスでの仕事を辞め、新しい仕事を始めたと話しましたが、その話を詳しくしようと思います。
私は場面緘黙症の後遺症で今は社会不安障害とうつ病の治療中です。
場面緘黙自体はだいぶ良くなって、もう全く話せなくなるということはほとんどなくなりましたが、やっぱりまだ自分から他人に話しかけたり、他人の名前を呼んだり、仕事で最低限必要な報告連絡相談もなかなか難しいです。
あと、うつ病の方は気分の落ち込みや理由なく泣いてしまうことは数年前と比較するとかなり減りましたが、体の重だるさは四六時中感じるし、ほかの人と比べてかなり疲れやすいので、まだまだ完解には遠いような感じです。
なので、まだまだ健常者としてフルタイムの正社員をするのは無理だし、健常者としてパートやアルバイトをするのもこれまでの経験から考えると難しいと思って('_')
まずは私の病気を理解してもらう環境で、しっかり通勤する習慣をつけることから始めるのがいいかと思い、就労継続支援事業所で働いてみようと思いました。
このブログを読んでくださる方の中には、私と同じように緘黙やほかの病気によって、健常者の人たちと同じように働くことが難しい方、仕事をすることに対して自信がない方やそのご家族の方もいらっしゃると思います。
その状況を良くしていくために就労継続支援事業所に通うことも一つの選択肢として考えてみるのもいいのではないかと思います。
今回は、私が就労支援事業所に通うことになった一連の流れについて書いていこうと思います。
まず、就労継続支援事業所って何?
ここまで書いてきましたが、読んでくださっている方の中には就労継続支援事業所という言葉が聞きなれない方もいらっしゃるかと思います。
就労継続支援事業所は、病気や障害で一般的な就労が難しい人達が仕事をしながら、今後働いて行く上で必要なスキルや、生活習慣の定着を目指して通う場所です。
障害をオープンにして通うので、その日の調子や障害の特性でうまくできないことを理解してもらいながら、毎日決まった時間にどこかに通う習慣や働く習慣を身に着けることができます。
なので、健常者と同じように仕事をすることに不安があったり、障害者枠での仕事をしたいけど障害者枠であっても働き続けられるか心配だという人に合った場所だと思います。
就労継続支援事業所にはA型事業所とB型事業所があります。
A型事業所とは
A型事業所は上記のに一般の就労が難しい人、不安がある人が対象で、働くことに不安があるけれど、事業所と雇用契約を結んで病気や障害を職場の人たちにオープンにして、何らかの配慮をしてもらうことができれば働くことができる人たち向けのサービスです。
私が通っている事業所もA型事業所です。
B型事業所とは
B型事業所は障害や病気で就労が難しい人が対象で、雇用契約を結ばずに職業訓練を受けることができるサービスです。
A型よりも融通が利き、自分のペースで通うことができるので、仕事をしてみたいけどまだ決まった日や決まった時間に通うことが難しい人達はB型から始めるのもいいかもしれません。
利用の流れ
障害者手帳の取得
一番初めに私が行ったのが障害者手帳の取得でした。
障害者手帳は今回A型事業所に通うために取得したわけではなく、2年ほど前にはすでに取得済みでした。
詳しくはこちら↓
場面緘黙症の後遺症である社会不安障害とうつ病とのお付き合いは今後も続くだろうと思っていたので、もし今後働くときや何かあった時の為に持っていた方が安心かと思って2年前に取得しました。
障害者手帳は初診から6か月たっている人が申請することができるのですが、私はうつ病とは障害者手帳取得の時点で5年のお付き合いだったし、症状で生活や仕事が思うようにできず、いつになっても親離れができないでいるので、手帳の力を借りて自立に向かっていきたいという気持ちもあって取得しました。
障害者手帳の申請には通院している病院で障害者手帳用の診断書を書いてもらう必要があります。
先生がどう書くかで障害者手帳が取得できるかどうかや等級も変わってくるので、日ごろから先生に自分の状態をしっかり伝えておくことが大切ですね。
私は口頭だと言いたかったことが言えなくて後悔することがあるので、先生に言いたいことは紙に書いて渡すようにしています。
通いたい事業所に連絡し、見学をする
私はA型事業所に通ってみたいとは思っていたけど、実際に行動に移すことにとても時間がかかりました。
それは、通うためには事業所に電話をして、実際に見学に行く必要がありその電話が自分ではなかなかできませんでした。
何回か自分で電話にチャレンジしようと思いましたが、どうしても電話への恐怖が強くてできず、代わりに母に電話をしてもらうようにお願いをしました。
母に頼むということは、私の言いたいことを代わりに言ってもらうということなので事業所に話しておきたい私の病気のことを書いたメモを母に渡して代わりに電話してもらいました。
その電話の中で、見学に行きたい事も伝えたので、実際に見学に行く事になりました。
電話は母にしてもらったけど、実際に通うのは私なので見学は母に任せるわけにもいかず、自分で行く事に('_')💦
本当に緊張していて、事業所に入る時には手が震えていましたが、事業所内はとても静かで、軽く面談をしたり説明を聞したりしてくれた方が物腰柔らかい人だったので少しホッとしました。
場所自体が静かであれば、私もここではあまり話す必要もなく、「しゃべらなきゃ」という気持ちなって不安になることも少なくなるのではないかと思い、希望が持てました。
続く
とある緘黙女のこの10年④
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
前回↓
の続きです。
学校生活での配慮
バイトを辞めて療養し4か月が経過し、精神的にもかなり安定してきたため大学に復学することになりました。
でも、安定してきたとはいえ、まだまだ緘黙の後遺症である社会不安障害の症状は残っていたし、うつ病も調子のいい日と悪い日があったり、卒業するために必修の授業の中にみんなの前でプレゼンをしないと単位がもらえない授業があったりして、私一人の力では単位が取れず、卒業ができない教科があったりしました。
そこで、ゼミの先生が提案してくれたのが、私が受ける教科の担当の先生に事情を話して、配慮が必要であれば配慮してもらうということでした。
発表しないといけない講義では、私を指さないようにしてもらう代わりにレポートを提出するようにしたり、プレゼンが必要な講義では学生たちみんなの前ではなく、教科の担当の先生の研究室に行って先生1人だけにプレゼンを聞いてもらうという方法を取ったりしました。
余談ですが、そのプレゼンの講義の担当の先生が本当にかっこよくて大好きになり、今となってはとてもいい思い出になっています。
放課後等デイサービスでの仕事
学校に通いながら、放課後等デイサービスでのアルバイトも行いました。
実際に働いてみると、やっぱり緘黙の後遺症でうまく子供たちに働きかけることが最初はできなくて、落ち込む事もありましたが、子供たちを支援することを仕事にしたいと思っていたことが叶っていることはとても恵まれた事だと思い、自分なりに子供たちに働きかけたり、たくさん会話をしたりするように心がけました。
一口に発達障害と言っても子供によってできることとできないことが違っていて、勉強の教え方もその子にとって分かりやすい方法を考えながら教えるようにしました。
勉強以外にも友人関係や思春期の子たちもいたので恋愛関係がデイサービス内で起こるなどしており、勉強だけでなく人間関係も学ぶ機会になっているんだなと実感しました。
また、子供たちを支援する仕事ではあったけど、私自身のコミュニケーションの練習の場にもなっていました。それまで雑談をするときは緊張で頭がほとんど回らず、言葉が出てこなかったのですが、子供たちと会話するようになったことで少しずつ雑談ができるようになっていきました。
自分が学校生活で悩みが尽きなかったからこそ、子供たちの学校での悩みを聞くことにやりがいを感じていたり、学校での楽しかった話や何気ない話を聞くことはいい学校生活を送れているんだな、良かったなぁと思いながら聞いたりして、私にとっては本当に有意義な時間でした。
大学卒業後
このような感じで大学生活とバイトをする生活を2年ほど続け、無事に大学を卒業することができました。
ゼミの先生が私を助けてくれなかったら私は大学を卒業できず、それが原因でうつ病はさらに悪化し、二度と外に出られなくなっていたかもしれません。ゼミの先生は私の人生の恩人で、本当に今でも心から感謝しています。
大学卒業したと言っても、社会不安障害の症状から就職活動はまだできなくて、卒業してからもしばらくは放課後等デイサービスでのアルバイトを続けていました。
アルバイトはとてもやりがいがあって、子供達と接する中で気づきや学びが多かったのですが、それと同時に悩みもありました。
この動画でも話しているのですが
私は自分が社会不安障害を患っている中で、自分が子供たちを支援することに関してできることに限界を感じるようになっていきました。
この仕事は、やはり話をすることで成立する仕事なため、その日の調子によって言葉がうまく出てこなかったり、うまく動くことができなくて、これ以上は私にできることはないかもしれない。
ずっと学校生活で困っているこの助けになる仕事をしたかったけど、自分がまだ病気で困っている状態で子供たちを支援するのはまだ早かったのかもしれないと思うようになりました。
なので、一旦放課後等デイサービスでのアルバイトをやめて、黙々とできる仕事をしてみるのがいいのではないかと思いました。
でも、正社員として働くことや、健常者として働くことにはまだまだ不安があったので、現在は就労継続支援のA型事業所で仕事をしています。
仕事の内容はデータ入力やオフィスソフトを使った仕事、illustratorの学習、ライティングなどパソコンを使った仕事を幅広くやっています。
自分が今後何をしたいのかまだ見えていないけど、パソコンのスキルを持っていれば選択の幅が広くなるし、パソコンに向かっての仕事なので静かにできるため放課後等デイサービスでのアルバイトの時よりも多くの時間働くことができるようになりました。
まとめ
数回に分けて私の10年間についてざっと振り返って書いてきましたが、いろいろなことがあった10年間でした。
場面緘黙症という言葉を知るまでは自分を押し殺し、自分が話せないことはできるだけ考えないようにしていましたが、この10年はうつを発症したり就活など一般的な道からは少し外れてしまったけれど、自分の病気と向き合ってどうやって生きるのがいいのかを模索した10年間だったと思います。
まだ、自分が今後の人生をどう生きていくか定まっていないので、これからも自分の生き方を模索し、少しずつ進歩しながら楽しく過ごしていきたいと思っています。
とある緘黙女のこの10年③
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
前回↓
心療内科で力になった言葉
心療内科の診察も先生と話をしないことには何に困っているのか先生に伝わらないので、とても緊張していました。
これまでの学校の先生と同じように、「気にしすぎ」と一蹴されやしないか、喋れないのは私の頑張りが足りないからだとか、いつまでも他人が怖いのは甘えだとか言われてしまうのではないかと不安でいっぱいでした。
不安の中、診察室に入ると、自分の気持ちや状況を先生に伝えようと必死に話しましたが、話しているうちに感情が高ぶってきてしまい、大泣きしながら先生にこれまでの経緯を話したような記憶があります。
話し終わった後、いったい何を言われてしまうのかと身構えていましたが、帰ってきたのはこんな言葉でした。
「あなたは今までずっと一人で頑張ってきたんだね。
場面緘黙で自分だけ話せない状況の中、ずっと学校に行き続けていたのは気持ちが相当強くなくちゃできない事なんだよ。
だから、まずあなたは絶対に弱くない。
話せないことで馬鹿にされたり、悪口を言われたりしても、あなたは基本的に負けん気が強いから家族にも誰にも相談せずにずっと一人で戦ってきたんだよね。
その強さがあるんだから今みたいに自分をダメだと思い込まなくてもいいんだよ。
あなたの元々の強さにプラスして、人に頼ったり、味方に相談したりすることができるようになれば、きっと今まで見たいに苦しい気持ちで生きなくても済むようになるから、それをできるようにこれから練習していけばいいよ。」
これまで、家族に対してはわがまま放題だったこともあり、家族にはよく「なおは気が強い」と言われてきていましたが、家族以外の人に強いと言ってもらえたのは初めてでした。
思い返してみれば、私が小学校から高校までいじめられたり、悪口を言われたりしても学校に行き続けた大きな理由は「私だって好きで黙っているわけじゃないんだ。」という悔しさや、「私がこの学校からいなくなったら、あいつらを喜ばせることになってしまうし、私の勉強だって遅れて進学もできなくなってしまう。それだけは絶対に嫌だ。私だってあいつらの陰口でストレスたまってるんだ。じゃああいつらだって私を見て不快な気持ちにでもなればいいんだ。」と、私に対して気持ち悪がったりいじめてきたりする人たちに対して思っていたからでした。
あぁ、私はそんな気持ちでずっと生きてきたんだった。
この時点で大学をさぼり始めてから約2年が経過していましたが、この2年間失っていた自分の気持ちを先生の言葉で思い出しました。
そこから、大学に戻るために準備や、新しい仕事のきっかけができていきました。
治療と放課後等デイサービスでの仕事のきっかけ
とはいえ、この時はまだうつ病の症状も社会不安障害の症状も強く、電車も母の付き添いがないと一人で乗れないという状態でした。
そのため、まだ続けていたファーストフード店でのアルバイトをすぐにやめてとりあえずは治療に専念することになりました。
すると、私の体には変化が起き始めました。
それまで、ストレスでお酒を毎日のように飲んでおり、お酒を飲むと食欲も止まらなくなって、とても太ってしまっていたのが、学校は休学してバイトはやめて、不安を感じることが大きく減ったためか、お酒を飲む必要がなくなり、それに伴って食べる量も減っていったことで、意識的に「ダイエットをしよう」と思っていたわけでもなく、自然に体が痩せていきました。
体型もコンプレックスの一つだったけど、ストレスにより自分で飲食のコントロールができなかったので、ストレスから離れて体型も整っていったことは一石二鳥でよかったことでした。
また、家で休むだけでなく病院にも通って、医師の診察だけでなく、カウンセリングを受けることも始めました。
その時には体調が少しずつ良くなってきていましたが、バイトを辞めたことでお金を稼ぐことができなくなったので、今後大学を卒業するための学費の準備をどうするかが新たな悩みになっていました。
そこで、カウンセラーさんに「学費はどうしたらいいでしょうか」という相談をしてみたところ、そのカウンセラーさんが紹介してくれたのが、発達障害や不登校の子供たちに勉強を教える、放課後等デイサービスのお仕事でした。
私自身、場面緘黙症で小学校から高校までうまくいかない事ばかりでした。なので、将来は何かしら学校生活に困っている子供達の力になる仕事をしてみたいと思っていたので、この仕事のお話をされたときには「私が希望していた仕事ができるかもしれない」と思い、すぐに「興味があります」と言った記憶があります。
その放課後等デイサービスは、そのカウンセラーさんが代表を務めている放課後等デイサービスでした。
そこから何回かカウンセリングを受けたのち、実際にその放課後等デイサービスへ見学に行ってみることになりました。
放課後等デイサービスの見学
興味があるとはいえ、私自身もまだまだ不安障害が強く、見学も口から心臓が出そうなほど緊張しながら行きました。
その放課後等デイサービスでは小学校1年生から高校3年生までと利用者の子供達の年齢層が幅広かったです。
とても緊張しながら行きましたが、小学生や中学生の子たちが私にとても気さくに話しかけてくれ、ここの先生になるかもしれないという立場でありながら、子供達に話しかけてもらっている新入りの子供のような見学になってしまっていました。
でも、この場では気さくで明るい子たちだけど、学校では大変な思いで通っているのではないかと考え、この場所がこの子たちにとって居心地が良いなら、放課後等デイサービスってすごくいい環境だな、と思いました。
また、子供たちのよりどころのような環境で仕事をすることは、私がやりたかったことそのものなきがして、見学後、もう少し私の病状が安定したら、この仕事をやってみたいという話をカウンセラーさんにしました。
顔が赤いのが嫌だったけど
今週のお題「赤いもの」
私は昔、とても悩んでいたことがありました。
それは、学校やバイト先で誰かに話しかけられた時に顔が赤くなってしまうことです。
男子であろうが女子であろうが、年上だろうが年下だろうが関係なく赤くなっていました。
男子に話しかけられて赤くなってしまう時は本当に困りました。
なぜなら、好きでもないのに勝手に顔が赤くなるので、相手や周りに
「なおってあの男子のこと好きなんじゃね?」
みたいな風に思われてしまうことがあるからです。
特に私は
「しゃべらなくてキモい」
と思われていたので、
「うわ、なお、○○に話しかけられた時赤くなってたぞ」
「え、まじ?なおって○○のこと好きなんじゃね?」
「きもっ!!」
みたいな悪口を思いっきり言われて非常に傷ついたこともありました。
なので、家で温かい物を食べたときに顔が赤くなった際、弟に
「お姉ちゃん、顔赤いよ😊」
と言われたときに癇癪を起して大泣きし、家族を困惑させてしまったこともありました。
さらに、ファーストフード店で注文を受けるアルバイトをしていた時期も対人恐怖症真っただ中の時期だったので、お客さんの対応をしていて突然顔が赤くなることがあり、お客さんに不審に思われているのではないかと思うとさらに顔がほてってくるという負のスパイラルに陥ることも頻繁にありました。
こんな感じでずっと赤面症に悩まされていましたが、メイクをするようになり、ファンデーションを使うようになったことで少しずつ赤面しなくなっていきました。
ファンデーションをすることですっぴんの時よりも少し顔の赤さが隠れるという安心感があり、完全に赤面を隠しきれてはいなかっただろうけど、「今はファンデーションしてるから大丈夫だ」ということを考えるようにしていたら、現在はほとんど赤面しなくなりました。
赤面症についてはこの動画でも話しているのでぜひぜひ見てみてくださいね♡
私が今使っているリキッドファンデーション↓
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キティちゃんコラボでお気に入り😊♡
とある緘黙女のこの10年②
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
前回
の続きになります。
うつ発症
自分が場面緘黙症だったことが発覚してからもしばらくは相変わらずな日々を過ごしていましたが、他人とは一応話せるようになって、話せないことで陰口を言われたり変人扱いされたりすることもなくなっていました。
でも、表面上は話せるようになってもまだまだ小中高の様々なトラウマやもともとの緘黙の症状により、他人への恐怖や不安は残ったままでした。
そんな状況でとにかく前みたいに話せなかったことで気持ち悪がられたくない、普通の人に見られたい。社会に出て通用する人間になるにはもっと話せるようにならなきゃいけない。そんな気持ちでずっと大学もバイトも頑張っていました。
そんな中、あることが引き金となってうつ病を発症してしまいます。
それは、バイトの接客中に
「このサイボーグ女!」
と罵られたことでした。
サイボーグと行ってきた客は注文で並んでいるときからいらだった様子で、どうやら車の中に子供を待たせていたらしく、早く注文することができなくて焦りやいら立ちがあったようでした。
なかなか自分の番が来なくて私が対応するのが遅くなってしまったことに腹を立てており、注文からものすごい剣幕でした。
私がそれに恐怖を感じておそらく緘黙の症状が少し出てしまったのでしょう。
笑顔が消えて無表情で応対してしまったためにサイボーグと吐き捨てられました。
私はこの時、サイボーグと言われたことに傷ついたのはもちろんですが、小中高とずっと人形のような振る舞いしかできなかった時代と比べて何も成長できていないのだと思い知らされて愕然としてしまいました。
高校までと比べて人と関わり、話そうと必死に努力したつもりでいたけれど、こんなに頑張っているつもりなのに私はまだサイボーグなのかと思ってしまったのです。
そこからだんだん無気力になっていき、大学に入ってから話そうと必死だったことがばからしく感じられ、また、いくら何を考えているか分からないと気味悪がられながらも不登校になることなく学校に通っていた小学校から高校までの10年以上の期間すら無駄な時間だったと思うようになり、これまでの頑張りすべてが馬鹿らしくなったと同時に、我慢の糸がぷっつりと切れてしまいました。
きっかけは客のサイボーグ発言ではあったけど、直接的なうつの原因はそれまでの我慢のストレスが一気に心身に来てしまったことでした。
大学もだんだんと行かなくなり、最初は先生にメールで休む連絡を入れることはしていたけどそれもせず無断で休むようになりました。
高校までは「話せなくても、変人扱いされても学校に頑張って行っている私」が自分の大きな取り柄だと思っており、学校に行くモチベーションを保つうえで重要な事だったけど、大学に行かなくなってずっと積み上げてきたその取り柄すらも崩壊していき、自分の心は当時はボロボロでした。
荒れた生活
学校にも行かず、家でお酒を飲むというめちゃくちゃな生活をするようになっていましたが、無断で休むようになったゼミの先生が見かねて親に私が学校に行っていないことを話してしまい、とうとう親にもばれてしまいました。
親はやはりひどくショックを受けていました。
それでも、私が何を思ってこんな行動に出ているのか理解しようと話し合いの場を何回か設けてくれましたが、当時まともな精神状態ではなかった私は母に対し、
「お母さんが私に緘黙のことを隠していたからこんなことになったんだ」
「今まで喋りなさい、喋りなさいって言っときながら今更理解したいとか意味が分からない」
「私がこうなったのは全部お母さんのせいだ」
などと暴言を吐いてしまいました。
ある時は居酒屋でお酒を飲んで腹を割って話そうという機会もあったのですが、自分をコントロールできず、当時は母に対する不信感も強かったので話の途中で深夜の居酒屋を飛び出して母を置いて帰ってしまったこともありました。
そんな感じで泣きわめき散らしながらも母と話をした結果、私が子供の頃は場面緘黙症なんて言葉の知名度はほとんどなくて、場面緘黙症と診断されたからと言って学校の先生は「お母さんの気にしすぎですよ」と言って特に支援はしてもらえなかったことを聞きました。
また、今でこそ発達障害や精神障害など見た目では分かりにくい障害の認知や理解が進んでいますが、私が小中高の頃はほとんど理解もなくて、私の学校の特別支援学級も子たちも身体的障害か知的障害の子たちしか行っていなかったこともあったので、私のような精神障害は放置されてしまうという状況でした。
その為母もどうすることもできずに私に何とか自力で話せるようになってほしいと思って私に話せるようになりなさいと言い続けてしまったとのことでした。
何の支援もしてもらえない状況で私が自分の病気を知ったところで、ショックを受けて学校に行かなくなるなどデメリットが大きかった可能性もあり、なかなか私が緘黙であることを母は私に言えなかったようでした。
その話し合いがあってもしばらくはもやもやしていましたが、日がたつにつれて母の気持ちも少しずつ理解できるようになっていきました。
そんな感じで母とのわだかまりも解けつつある頃、私のゼミの先生から大学の保健管理センターで臨床心理士の先生と話をしてみたらどうかという勧めがあり、保健管理センターに通うようにもなりました。
その頃ははじめましての人と話すのがやっぱり難しい時期だったのと、まだ情緒が安定していなかった時期だったので、自分の話を心理士さんに話すときに大泣きしてしまい、何を話したか全く覚えていないです。
でも、その心理士さんはその後大学に復帰するときに本当に大きな力になってくださったので、その話もまたブログに書こうと思います。
それでも私のうつ病と緘黙の後遺症である社会不安障害の症状はよくなっていなかったので、母が心療内科を調べてくれ、心療内科にも通うことになりました。
続く
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とある緘黙女のこの10年 ①
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
私が利用しているブログサービス、はてなブログが10周年ということで、お題が出ているので、私のこの10年で変わったこと、変わらなかったことについてお話していこうと思います。
私の10年間とは
私はもうすぐ28歳になってしまうので、10年前というと18歳。
高校3年生の後半から今にかけてが10年間になります。
私は、高校卒業までほとんど家族以外の人間と話ができず、大学から少しずつ他人と話すようになって、その中でうつ病にかかるなど辛くて大変なこともあったけど、大学時代や卒業後にたくさんの人に助けてもらったり、関わってもらったことで緘黙の症状は10年前と比較すると本当によくなりました。
その10年を大まかに振り返って行こうと思います。
大学受験
高校3年生の後半と言えば、大学受験の時期でした。
私は地元の国公立の大学を第一希望にしていましたが、学校で話ができないストレスから家ではひたすら気晴らしばかりしており、あまり受験勉強に取り掛かることができず、センター試験でもあまり良い成績を残せず、希望の大学はE判定という絶望的な状況でした。
滑り止めの短大には受かっていましたが、その短大は9割女の子が通う短大で、当時女子だけの環境に尋常じゃない恐怖を感じていた私にとっては短大はあまり行きたいとは思えませんでした。
国公立の受験には前期と後期とあり、前期は学力試験、後期は論文を書く試験だったのですが、前期は案の定落ちてしまいました。
センターでの判定はEだったし担任からも短大に決めたらどうかと言われましたが、私はどうしても国公立大学が良かったので後期の論文の試験を受けました。
私は高校で小論文を書く授業でお手本としてみんなの前で文章を読まれたことがあり、文章にはそこそこ得意だという意識があったので、ダメもとでどうしても後期の試験を受けたかったので後期の試験まで論文をひたすら書きました。
すると、なんとセンター試験でE判定という酷さだったにも関わらず、合格することができました。
合格発表は自宅のパソコンで見たのですが、自分の番号を見つけたときには泣きながら大はしゃぎしてしまいました。
担任に合格の報告をしたところ
「え、見間違いじゃないのか!?」
と失礼な事を言われましたが、担任がそんなことを言うレベルで絶望的な受験でしたが、受かることができて天にも昇る心地でした。
担任はとにかく厳しく口うるさい先生でしたが、先生が論文の担当の先生でもあり、先生のおかげで合格できたことは言うまでもないことなので、本当に感謝しています。
大学1年生になって始めたこと
こうして晴れて大学生活がスタートしました。
高校までほとんど他人と会話をしてこなかった私も、さすがにこのままではだめだと思って、大学時代を機に喋れるようになろうと努力し始めました。
そこでまず始めたことがマクドナルドでのアルバイトでした。
まず面接がものすごく怖かったのですが、親からの圧が強かったり、自分でも話せるようにならないとこのままでは生きていけないと思っていたので勇気を振り絞って応募しました。
面接ではとにかく変な人だと思われないようにとにかく無理やり話した結果受かり、カウンターでの接客を始めることになりました。
もう一つがサークル活動への参加でした。
中学校から高校まで私は部活に一切入らず、授業が終わったらすぐさま家にまっしぐらな生活をしていたので、大学生になったらサークルに入って他人と関わろうと思っており、優しい人が多そうなボランティアサークルに入ることにしました。
ボランティアと言っても種類がたくさんありましたが、私が参加したのは自閉症の子供たちと関わるサークルでした。
もちろん、自閉症の子たちをサポートする役割なのでやはり話せることは必須のスキルだったため、サークル活動を通して自分もどんどん他人と話ができるようになることを目的として活動に参加しました。
場面緘黙症を知る
そんなこんなで喋らざるを得ない環境に身を置いた結果、これまで全くできなかった自分から挨拶をすることや話しかけられた時に首振りやうなずきではなくちゃんと口頭で返事をしたりすることができるようになっていました。
それまで挨拶は自分からなんてあり得なかったし、向こうがあいさつしてくれても返すことすらできなかったのに、できるようになったので
「あぁ、挨拶ができるって素晴らしいな」
と、挨拶を普通にしたり返したりできることがいかに幸せかをかみしめていました。
また、挨拶以外での会話はまだうまくできず、話しかけられても緊張で頭が回らずにうまく返事ができなければ会話が広がることもなく、そんな感じなので大学でもサークルには一応参加しているけど会話はあまりできなかったし、ゼミでもやっぱり同年代の人たちに対する恐怖心が強く残っていたのでゼミの人たちとも仲良くはなれなくて結局1人行動がほとんどという感じでした。
そんな時、たまたま見かけたある番組の予告に私は目を奪われました。
その予告には
「家族以外と話せない少女!その心の秘密とは!?」
という言葉が出ていました。
それを見た私は思わず固まってしまいました。
というのも、私は生まれてからその時まで、他の子たちは普通に家族以外の他人と会話しているのに自分だけできないのには何らかの障害や病気なのではないかと思ったことはあったけど、そのときはまだ自分が病気だと知らなかったし、周りの人たちも私も「話せないのは自分の性格の問題だ」と思っていたので、その予告はこれまで私が会話ができなかったことの原因が番組を見ればわかるのではないかと思い、その番組を必ず見ようと決意しました。
そして、その番組の放送日が来て、実際に番組を見たところ、「場面緘黙症」という言葉を初めて知ることになりました。
そして、紹介されていた場面緘黙症の女の子の特徴が私が話せなかった時と全く同じで、見ていていろんな感情が沸き上がり、涙が止まらなかったです。
あまりにも私と同じだったことから、母に
「これって私と同じだよね」
と話したところ、母は、
「実はね、あんたも小さい頃に場面緘黙症だって診断されてたんだよ。」
と言いました。
「だろうな」
と思いました。
母は、私が自分が病気だと知ったらショックを受けて学校に行かなくなってしまうのではないか、他人と話せるようになることを諦めてしまうのではないかと心配していて、なかなか私には場面緘黙症だと言えなかったようでした。
しかし、知った瞬間私が感じたのは
「あぁ。よかった。」
という感情でした。
これまで話ができないのは自分のせいだと思っていたけど、病気だったとわかると自分をもう責めなくていいんだと思ったのです。
また、病気ということは自分以外にも同じように悩んでいる人たちがたくさんいるということで、これまで家族とは喋れるのに他人と話せないなんて人は私の周りにはいなかったし、世界で私だけなのではないかと思っていたけど他にもいるんだとわかってとても安心しました。
でも、場面緘黙症を知ったからと言ってその当時は頑張って少しずつ話せるようになっていた時期だったし、病院に行く必要もないと思っていたので、しばらくはそのままの生活が続いて行くことになりました。
続く
逆に考えるんだ
人生、生きていたらいいことも悪いこともたくさんありますよね。
私の人生もいいことと嫌なことが繰り返し起こっています。
正直、場面緘黙症をはじめとした精神の病気で、人生が思うように進まなくてつらいな、と思うことばかりです。
そんな私がつらいことに直面してしまったときに、心がぶれすぎないために、また少しでも早く元気になるために必ず思い出す言葉があります。
それは、
「逆に考えるんだ」
という言葉です。
知っている方もいるかと思いますが、これはジョジョの奇妙な冒険の1部に登場する言葉です。
主人公のジョナサン・ジョースターの父親であるジョージ・ジョースターが発したセリフで、飼い犬のダニーがおもちゃを手放さないことに困ったジョナサンに
『なにジョジョ?ダニーがおもちゃの鉄砲をくわえてはなさない?
ジョジョ それは無理矢理引き離そうとするからだよ
逆に考えるんだ
「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ』
とジョージが諭した台詞です。
ジョナサンは、戦いでピンチに陥った時にこの「逆に考えるんだ」という言葉を思い出してピンチを脱しました。
この言葉がたびたび私のメンタルのピンチを救ってくれています。
例えば、失恋したときは私の中のジョージが
「なに、なお?好きな人と連絡ができなくなった?
逆に考えるんだ
『既読や未読に惑わされる時間が無くなってストレスがなくなるからいいさ』
と考えるんだ」
だったり、自分に自信を失わないように
「逆に考えるんだ
『なおを選ばずなおの魅力を理解できなかった人に固執せずに時間を無駄にしなくて済んだからいいさ』
と考えるんだ」
と言うのです。
すると、なんとなく沈んでいた気持ちが元気になってきます。
失恋だけでなく、私に人生をさんざん邪魔してきた場面緘黙症についても
「なに?場面緘黙症で話せなくていろいろ苦しくてつらい?
逆に考えるんだ
『場面緘黙症でなければなおの性格上、人の苦しみや痛みを理解できない、傲慢な人間になっていたかもしれない。そんな人間にならなくて済んだのだからいいさ』
と考えるんだ。」
と思ったり、
「逆に考えるんだ。
『人と話すことができない経験ができる人は限られている。その少数な人しかできない経験ができたのだからいいさ』
と考えるんだ。」
と思ったりすることで乗り越えてきた部分も振り返ってみれば結構あったな、と思います。
なんと言うか、自分の思い通りにならないことの中にメリットを見つけたり、もし希望通りの人生になったとしても何らかのデメリットが出てきてもしかしたら今より大変なことになっていたかもしれないと考えたりすると、今置かれてる状況が「これはこれでそれなりにいいのかもしれない」と思えてくるような気がします。
そんなにジョジョに詳しいわけではないけれど、ふとした時に知ったジョージ・ジョースターの言葉に私は結構救われているのでした。