もし、緘黙でなかったら
私は場面緘黙症に生まれてきた。
それは変えようのない事実である。
だから、考えても仕方ないことなのだが、やっぱりどうしても定期的に考えてしまうことがある。
それは、もし私が場面緘黙症でなかったら、果たしてどんな人生だったろうか、ということだ。
場面緘黙症が私の人生に与えた影響はものすごく大きい。
話せないことで苦しい思いは沢山してきたし、そのせいでうつ病になるし、今はまともに働けてすらいないし、もう嫌なことを挙げるときりがない。
正直な話、病気で良かったなんて少しも、これっぽっちも思えない。
だけど、病気だからこそわかったことも沢山あると思っている。
私は、家の中では非常にわがままな女だし、弟に対してひどい態度ばかりとってきた。
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だから、もし私が話せていたとしたら、学校の同級生の子達を馬鹿にしたり、自分中心に動いたり、更には私のような病気の子のことが理解出来なくて、いじめる側になっていたかもしれない。
場面緘黙症で話せないことによって私はいろんな人に嫌われたり、気味悪がられたりしたけど、場面緘黙症でなかったらなかったで、また違った意味で嫌われていただろうな、と思っている。
私は現在、放課後等デイサービスで不登校や発達障害の子達に学習指導をする仕事をしているが、それも、私が場面緘黙症でなければやっていなかった仕事だと思っている。
長きにわたり話せなかった経験によって、したくてもできない子達の気持ちは理解できるが、話せなかった経験がなければ、できなくて悩む子供たちに寄り添うことはきっとできなかっただろうな、と思っている。
あと、やっぱり、仕事が出来ること、人と仲良くなれることがいかに幸せなことであるかも場面緘黙症を経験しなければわからなかった。
私は、今短時間の仕事を週3でやっているが、なかなかこれ以上仕事の時間を増やせなくて困っているし、一般的な就活はまだまだできない状態だ。
あと、25年生きてきて、友達と呼べる人が近くにいないし、結婚適齢期なのに恋愛経験もないから、やっぱり寂しい。
片想いだけならそこそこしてきて、今も好きで好きで好きで仕方ない人がいるけど、大好きな人と付き合ってみたいのだ。
でも、稀に仲良くなれた人が現れると本当に幸せだな、と感じる。
感謝する気持ちでいっぱいになる。
でも、そういう人は遠くに行ってしまうことが多いんだよな。
遠くに行っても連絡を続けてくれる人は本当に貴重です。
私は、場面緘黙症でなかったら、と考えてみると、やっぱり場面緘黙症じゃないからこそ得られた幸せが確実にあったんじゃないかと思う反面、私は自己中モンスターになっていたと思う。
場面緘黙症で生まれたことは変えようがないから、モンスターにならずに済んで、子供たちに巡り会えて、私を理解しようとしてくれる優しい人達と仲良くなれて良かったな、と思いながら受け入れ続けていきたい。